空と旅と温泉と雑想と

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小さい春の見つけ方を考えてみた

今週のお題「小さい春みつけた」

今回は今週のお題について投稿です。

小さい春の見つけ方を古典から考える

私達は小さい春をどうやって見つけているのだろう。
ここは古(いにしえ)の文献に当たることで小さい春の見つけ方を考えてみたい。
※今回の文書は考えたことの勢いを重視して書いているため、文体がいつもとちょっと違います。

漢詩から小さい春を見つける

まずは漢詩の「春暁」から小さい春の見つけ方を考えてみたい。春眠暁を覚えずってやつだ。

『 春 暁 』 孟 浩然
春眠不覚暁 処処聞啼鳥 夜来風雨声 花落知多少
<書き下し文>
春眠暁を覚えず 処処啼鳥を聞く(しゅんみんあかつきをおぼえず しょしょていちょうをきく)
夜来風雨の声   花落つること知る多少(やらいふううのこえ はなおつることたしょう)
<現代語訳>
春はぐっすり眠れるものだから、夜が明けたのに気づかず寝過ごしてしまった。あちらこちらから鳥の鳴き声が聞こえる。
昨晩は、風や雨の音がしていたが、花はどれくらい落ちてしまっただろう。

私が評するのもおこがましいが、とても良い文書だと思う。春の美しさや儚さが、鳥の鳴き声や散ってしまった花に感じ取れる。

この文書では、寝坊して目覚めた時に鳥の鳴き声が聞こえ、夜中の風雨で、花が落ちてしまったかどうか、を心配することが、春を見つけることにつながっている。
確かに「春一番」「春の嵐」という言葉があるように、春は天候が荒れがちだ。そして春の花の代表格である桜は、悪天候で散ってしまうイメージがある。
強風が夜に吹き荒れた翌朝、ふと桜を見ると、昨日まで満開だった桜が散ってしまっている、というシーンがなんとなく浮かんでくる。

まとめると、寝坊して目覚め、花が散っていないか心配する心に、小さな春を見つけるということだろう。

古文から小さい春を見つける

春はあけぼの(枕草子) 清少納言
春はるは、あけぼの。やうやうしろくなりゆく山やまぎは、すこし明あかりて、紫むらさきだちたる雲くもの、細ほそくたなびきたる。
<現代語訳>
春はなんといってもほのぼのと夜が明けるとき。だんだんとあたりが白んで、山のすぐ上の空がほんのりと明るくなって、淡い紫に染まった雲が細くたなびいている様子。

次は枕草子の「春はあけぼの」から小さい春の見つけ方を考えてみた。
この文も、山の稜線が白んで春を感じるところのしみじみ感が非常に美しい

早起きして(もしくは徹夜して)、明け方に山を見ると、白んだ山と朝焼けの雲が春を感じさせるということだろう。

「春暁」だと寝坊した時に春を見つけるのに、枕草子」では明け方に春を見つけるらしい。
どっちなんだろうか。

【結論】春はどこからでも見つけられる

「春暁」も「枕草子」も、春を見つけている。そして二つの古典がカバーしている時間帯は明け方(枕草子)から日中(春暁)と幅広い。
ということは、春はいつでも見つけられる、ということなのだろう。
よく聞くような言い回しだが、人それぞれの春があり、しみじみと感じ入るような部分があれば、「春を見つけた」ということなのだと思う。

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私も春を見つけた